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今は暗渠となってしまった烏山川。この烏山川沿いに、下流から池尻、三宿、太子堂があります。その辺りの魅力資源をノンジャンルで発掘していきます。地元民には「オシャレな三宿」とかって、納得できませんしね。でしょ?
Posted by - 2025.05.11,Sun
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Posted by ムルギー - 2008.04.08,Tue

1efa4522jpegかつて三宿には、近所の子供たちの間で有名な、ノコギリクワガタが集まるクヌギの木がありました。一軒家の庭にあったのですが、マンション建設に伴い切り倒されてしまいました。なにしろ夏の間は早朝行くと、いつもノコギリクワガタが2~3匹捕れるのです。まあ、地方だったらそんな木はいくらでもあるでしょうけれど、昭和30年代の渋谷近くの三宿の話ですから。なぜか、カブトムシはほとんどいなかったですね。見たのは2~3回だけです。カナブンはいくらでもいました。庭掘ると幼虫がたくさん出てくるんですね。ちなみにこの一軒家って私の家だったんですけど。三宿神社の斜め右前のマンションのある場所です。あと、タマムシですね。最近激減していますね。見たことありません。でも、タマムシは昔から貴重でした。一夏に1匹採れるか採れないかという。運がよければ数匹採れましたが。で、三宿でタマムシが採れたのは、かつての国立小児病院のすぐ裏にある欅の大木でした。確か4~5本ほど欅があって、そこに飛んでくるんですね。タマムシの植樹(幼虫の)は欅ですから。国立小児病院跡も今は工事中で、大きなマンションを建築中です。また、三宿の人口増えますね。それに伴い、三宿の虫口が減ります。ノコギリクワガタを採り、タマムシを採り、アオダイショウを採った三宿も、今は昔です。
※アオダイショウ捕まえて家で飼っていたのは、三宿でも私くらいだと思いますが。

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Posted by ムルギー - 2008.04.08,Tue
cf8bf72fjpeg三宿1丁目にあるライオンズマンションです。かつては、山本オブラートの工場でした。三宿では一番大きな工場だったと思います。あと三宿保育園の場所にあった測機舎(今はソキア)の工場も大きかったですね。その次がレンズの研磨機を製作していた三光機製作所。場所は米屋の脇の路地を入って左側です。右側の川沿いには事務所棟がありました。山本オブラート自体はまだあるようで、マンションの北側がオフィスになっています。昔はどこの家にもあったオブラートですが、薬はほとんど錠剤になり、粉の薬も飲みやすくなって、今ではすっかり姿を消してしまいました。丸くて薄いボール紙の容器で、蓋をあけると薄いオブラートが積み重なって入っていました。そういえば、ボンタン飴はオブラートでくるんでありますね、今でも。あれはボンタン飴同士がくっつかないようにするためでしょう、多分。三宿にはその他、飯田製作所、昼間製作所などがありました。今でも小さな町工場がいくつか残っていますね。ちなみに武藤工業の創業者は、測機舎のエンジニアーだったと聞いたことがあります。最初は3人くらいの小さな町工場だったようで。
Posted by ムルギー - 2008.04.07,Mon
95778d96jpegかつて三宿には三宿城がありました。今は世田谷区立多門小学校になっています。三宿神社、三宿の森緑地あたりまで、城域だったようです。ウエブで調べてみると、築城されたのは室町時代で、江戸時代には世田谷城主吉良氏の城だったとのこと。しかし、室町時代にこんなところに城を建ててどんな意味があったのでしょうか。攻めてくる人がいるとも思えないし。誰もこんなとこまで来るとは思えないのですが…。でも、城があったってことは、三宿は一応城下町ということになるんでしょうかね。かっこいいからそういうことにしておきましょうね、地元のみなさん「城下町 三宿」を広めましょう。地元のお菓子屋さん、「三宿城饅頭」とか作りましょう。ラ・テールは「三宿城プリン」とかね。
ちなみに多門小学校ができる前には、この一帯は地元民に「山」と呼ばれており、子供にとってはかっこうの探検エリアだったようです。昭和初期に京橋から三宿へ引っ越してきた母の話だと、子供のころはとても怖くて一人で山には行けなかったということですから。まあ、三宿神社は昔からあったようですが、三宿の丘は牧場だったそうです。京橋から引っ越してきた当時は、あまりに田舎なので、さみしくてしょうがなかったと言っておりました。しかし家の裏の丘が牧場で、牛が草をはみ、目の前には護岸工事をする前の烏山川が流れているなんて、男の子だったら最高だと思うんですけどね。うちは烏山川沿いだったので、庭で釣りもできたし、泳げたらしいし。家でその当時の写真を見たことあります。見つけたら掲載しますね。ほんと、どいなかですから。

※上のイラストですが、時代考証も何もしてません。こんな感じかなという想像図です。でも、三宿城を絵に描いたの私が最初かも。他で見たことないし。早いもん勝ちです。
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左は三宿城址を烏山川緑道方面から見上げた写真です。車が走っている通りと平行に、もう一本上に上がる坂道が見えると思います。その先の白い建物が多聞小学校の体育館です。つまり、ここが三宿城址です。左側の葉の落ちた木があるところは、三宿神社の隣の墓地です。さらにそ奥に三宿神社があります。神社の隣に墓地があるのは、昔多聞寺というお寺だったからだということです。
Posted by ムルギー - 2008.04.07,Mon
553c002ejpeg烏山川緑道の三宿あたりを、三軒茶屋方面を背に撮った写真です。緑道をはさんで右側が三宿1丁目、左側が三宿2丁目です。右方向が南になります。三宿2丁目は緑道から上り斜面になっています。つまり南斜面になるわけです。なので、このあたりではまあまあの住宅地となっており、三田誠広や田村高広の居宅などもあります。一方、三宿1丁目は国道246に向かってなだらかな斜面になっています。つまり北斜面ですね。ですから、商店街および住宅密集地域で、昔から職人などが多く住んでいました。葛西善蔵が住んでいたのも三宿1丁目の大工の家でした。用途地域も異なると思います。多分。
Posted by ムルギー - 2008.04.07,Mon
5858aabejpega8b6d4dcjpeg左の写真は、三宿方面から下の谷通りにアプローチした時の商店街入り口です。さびれています。昔は右の駐車場が魚屋で、その前は肉屋でした。
右の写真は商店街の真ん中あたり。やっぱりさびれてます。もっとも写真とったのは朝だから、人も歩いていません。でも、昼までもやっぱりさびれています。ほとんどの店が閉店して、いわゆるシャッター商店街になってしまっているんですね。かつてNHKの「新日本紀行」でとりあげられたほどの商店街だったんですが……。
bc5ef237jpeg右の建物は、かつて魚屋さんでした。かつてといっても、数年前までは。やっぱり三茶の大型店にはかなわないんでしょうね。ここの魚は鮮度がよくて、私もよく買ったんですけど…。14b34762jpeg
この写真は、下の谷通りの路地の一つです。まんま下町ですね。なにしろ下の谷通り商店街は、関東大震災で焼け出された下谷の商店街の人たちが移り住んで起こした商店街ですから、やっぱり下町っぽい風情になるんでしょうね。でも、そのうち取り壊されてマンションになってしまうでしょう。今、下の谷通りの商店街の半分くらいはマンションになっています。
ちなみに、この路地の奥に烏山川緑道があります。
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ムルギー
年齢:
69
性別:
非公開
誕生日:
1955/11/12
職業:
下等遊民
趣味:
めまいのする散歩
自己紹介:
中国四川省の深山で生を受け、三歳にして四書五経、平凡パンチなどを読破。その後世界を放浪する資金に恵まれず、四川省とは似ても似つかぬ烏山川流域を放浪。水宿を終の棲家と決め、今日に至る。
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