今は暗渠となってしまった烏山川。この烏山川沿いに、下流から池尻、三宿、太子堂があります。その辺りの魅力資源をノンジャンルで発掘していきます。地元民には「オシャレな三宿」とかって、納得できませんしね。でしょ?
Posted by ムルギー - 2008.04.05,Sat
シーアイマンションの前の道を下った左側、シーアイマンションと目黒川緑道の間の昔のようすです。昭和40年代の後半くらいまでだと思います。三宿たんぼを橋で横断したあたりです。高台に向かって土の斜面があり、そこに埋め込まれた電信柱のような木材が足場になっていました。道路沿いに丘の一部が切り取られ、地層が見えていました。その上は平になっていて、防空壕の横穴が3つほどありました。入れないように入口は木材で閉じられてましたけど。右側の藪のてっぺんは、戦時中高射砲が設置されていた場所で、今も記念碑があります。そこから藪の中に細い獣道程度の道があり、下ることができました。ちなみに高射砲跡は、かつて近所の男子高の喫煙所でした。近所には3つの男子校があります。まあ、そのうちどことは言いませんが。
上のイラストの現在の姿を撮影してきました。この坂あたりが、かつて土むき出しだった坂だと思います。もっと広くて急でしたけど。今はこの先は行き止まりです。かつては警察の寮のある敷地とつながていたんですけど。
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Posted by ムルギー - 2008.04.04,Fri
石坂洋次郎と葛西善蔵はともに青森県弘前出身で、善蔵は1988年の生まれだから、2年先輩ということになります。洋次郎は同じ故郷を持つ善蔵に心酔しており、大正12年(1923)に、鎌倉の建長寺に寓居していた善蔵を訪ねます。ところが泥酔した善蔵に郷土の踊りを強要されるは、相撲でねじ伏せられるは、挙句の果てには日本刀を頭の上で振り回されるという、とんでもない目にあります。後に洋次郎はある文学賞を受賞したとき
「津軽には、ただ小説を書くというだけのために、妻子を飢えさせ、親類や友人に迷惑をかけて恬として平気でいられるという風があります」
と語っています。まあ、太宰のことも念頭にはあると思いますが、あきらかに善蔵のことですね。
しかし1966年に菊池寛賞を受賞したときはこう語っています。
「私は私の作品が健全で常識的であるという理由が今回の受賞の与ったのであるが、見た目に美しいバラの花も暗くじめじめした地中に根をはわせているように、私の作品の地盤も案外陰湿なところにありそうだ、ということである。きれいな乾いたさらさらした砂地では、どんな花も育たない」
昭和6年に洋次郎が発表した「葛西善蔵の人生観」には、次のようなシーンが登場します。
洋次郎が本郷の善蔵の下宿を訪ねますが、泥酔した善蔵に「お前は汚らわしい、帰れ」と怒鳴られます。そこへ偶然、牧野真一が訪ねてきます。善蔵は牧野に抱きつき接吻し、おいおい泣きだします。「牧野、よく来てくれた。僕、駄目だ、駄目だー」
洋次郎はそのあと、善蔵に襲いかかられ、家を飛び出します。
電車の中で、ふと僕は涙ぐんだ。牧野真一!よし、僕も今に葛西さんに接吻される位の人間になってみせるぞ……涙が水のように溢れてきた。僕はやはり葛西さんが好きだった。
「葛西善蔵の覚書」には次のようにあります。
葛西さんは好きな人だった。困らされても困らされても好きな人だった。葛西さんの人間が好きだということは同時にその作品も好きだということである」
何をされても何を言われても、洋治郎は善蔵が死ぬまで彼から離れることはありませんでした。憧れだったんですね。破滅へ向かう芸術家の典型でしたから。自分もそうありたかったんでしょう。本当はその素質もあるのだけれど、自分はあえて俗世界へ入って行ったんだと自分を納得させつつも、やはりどこか違う。自分は善蔵にはなれない。最初に賞を受賞したときには、善蔵を俺は越えた、いや超えて克服したと思いたいという気持ちが現われています。強気で誇らしげです。でも、それはあくまで自分に言い聞かせているようでもあります。俺は善蔵にはなれないんだと。菊池寛賞受賞時の言葉に、そのあたりの複雑な心境が表れています。表向きの「石坂洋治郎」の姿は仮の姿、生きるための姿で、おれの本当の魂は葛西善蔵なんだと…。葛西善蔵と石坂洋次郎。作品も人生もまったく異なるこの2人のような濃厚で屈折した人間関係など、今はもうないんでしょうね。
Posted by ムルギー - 2008.04.03,Thu
「S屋の爺さんと知り合ひになった……知合ひといふのも可笑しなやうな知り合ひになって、あの爺さんも、ちっとは困りやしないかしら」
とあります。まあ、自分でも厄介者であることは分かっているんですね。大工に追い出される時も、信州屋のおやじが間にはいっていろいろやってくれたようです。結局、その下宿を出ることになるのですが、やはり信州屋のおやじが面倒を見てくれるんですね。すぐ近くに新しい下宿を見つけてくれます。
「S老人が、兎に角にと自分を宥めて、その場に迫って、直き半町とも隔たってゐない埋立地の細民窟の中の長屋の一つを借りてきて呉れたのだった」
とあります。「埋立地」ということは、考えられるのは「蛇池」、つまり三宿たんぼ方面ですね。以前写真で紹介した場所ではありません。写真は大工のほうかもしれません。ただ、三宿内で二回引っ越しているらしいので、なんとも言えませんが。
※写真は左から明治41年、大正13年、昭和3年撮影。ウーン、人生を感じずにはいられません。
Posted by ムルギー - 2008.04.03,Thu
Posted by ムルギー - 2008.04.02,Wed
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プロフィール
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ムルギー
年齢:
69
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非公開
誕生日:
1955/11/12
職業:
下等遊民
趣味:
めまいのする散歩
自己紹介:
中国四川省の深山で生を受け、三歳にして四書五経、平凡パンチなどを読破。その後世界を放浪する資金に恵まれず、四川省とは似ても似つかぬ烏山川流域を放浪。水宿を終の棲家と決め、今日に至る。
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