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今は暗渠となってしまった烏山川。この烏山川沿いに、下流から池尻、三宿、太子堂があります。その辺りの魅力資源をノンジャンルで発掘していきます。地元民には「オシャレな三宿」とかって、納得できませんしね。でしょ?
Posted by - 2025.05.15,Thu
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Posted by ムルギー - 2008.04.02,Wed
f9dc352djpeg芹沢光治良の住居跡です、多分。(間違っていたらごめんなさい。その昔母から聞いたのですが…)。今はアパートになっていますが、つい最近までは木造の家屋でした。写真右はじに写っているのはマンションの生垣です。このマンションの場所には、かつて古いアパートが建っていました。道路に面して石垣が2メートルほどの高さで築かれており、その上に建っていました。桜の木が数本あり、春には毎年ウグイスが来て、さえずりを聞かせてくれました。このマンションのある敷地は、その昔中村邸の敷地で、使用人の家が建っていたそうです。右に上がる坂がありますが、ここを上っていくと、右側に「三宿の森緑地」の西側の入り口があります。その緑地とマンションの土地を合わせた敷地が中村家だったんですね。中村家に関しては、「三宿森緑地」を見てください。
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Posted by ムルギー - 2008.04.01,Tue
e0c77f1cjpeg三宿の森緑地は三宿神社の奥にある公園で、以前は法務省法務総合研究所の寮でした。で、その前はというと、大陸で日産コンツェルンの創始者鮎川氏と共同事業を行っていた、中村氏の邸宅でした。実際に住んでいたのは息子夫婦だったようです。で、その前は敷根氏の邸宅でしたが、敷根氏は昭和初期に邸宅を建てたものの、実際には一度も住んだことはないということです。つまり、敷根氏の建てた家を、中村氏がそのまま使っていたわけです。ところで、敷根氏が何者なのか、私には分りません。どなたか知ってます?
さて、三宿の森公園は、平成16年に開園しました。公園の中には、以前からあった石灯籠など一部残されていますが、法務省の建物はすべて取り壊され芝生の庭園となっています。ところで敷根氏が建てた日本家屋ですが、取り壊されたのは昭和51年のこと。それまで法務省の寮としてそのまま使われていたのですが、新たに鉄筋のビルに生まれ変わりました。実はこの法務省の寮、虫取り少年であった私の大事な狩場の一つだったんですね。日本家屋の前は芝生になっており、その先に池がありました。そこにギンヤンマが来るわけです。少年あこがれの、あのギンヤンマが。オニヤンマよりギンヤンマですね。やっぱり。だってあの色ですからね。エメラルドグリーンにトルキッシュブルーですから。ちなみにイラストに描かれた見るからに利発そうな少年は、志賀昆虫店の補虫網を構える私です。後ろの日本家屋は記憶を絞り出して描きました。建物の位置は、公園の北側です。誰か写真持ってる人いませんかねー。
Posted by ムルギー - 2008.04.01,Tue
cffb7020jpeg広川弘禅(1902〜1967)政治家、僧侶。賞三位勲一等瑞宝章。
広川弘禅は、吉田内閣で自由党総務会長、農林大臣を歴任した大物政治家。曹洞宗大学(現駒沢大学)を中退し、道路人夫、郵便配達人を経て、東京市電職員となり、東京交通労組を結成。労働争議を指導しました。戦後は吉田茂に接近し、大物政治家への道を歩み始めます。で、なぜ広川弘禅か…。実はかつて、彼のお屋敷が三宿にあったのです。場所は、淡島通りの淡島交差点を国道246方面に向かって折れ、多門小学校の前を通り過ぎ、坂を下ったところで左折。今は住宅が立ち並んでいますが、その一方通行路の左側に弘禅のお屋敷がありました。奥さんは、弘禅の死後、後をついで立候補し、衆議院議員になった広川シズエです。ちなみに、三宿にあるさくら幼稚園は、今は田村学園グループ傘下に入り、園長は理事長の奥さんである田村ふみこ氏ですが、以前は広川シズエが園長でした。たしか、青葉学園ももともと広川さんが経営しており、その後田村学園グループ傘下に入ってのではなかったでしょうか。
Posted by ムルギー - 2008.04.01,Tue
三宿近辺で紙芝居屋が来るのは、下の谷通りの一番はじにある八百屋前と、通称太子さまの円泉時境内でした。昭和40年中ごろまでは来てたような気がしますが…。やってくると、カランカランとベルを鳴らすんですね、確か私の記憶では…。ちなみに、八百屋のすぐ前に小学校の同級生が住んでいて、そいつの家に遊ぶに行ってると、この音が聞こえてくるわけです。で、遊びを一時中断して表に飛び出し紙芝居を見るんですが、紙芝居は客寄せであって、商売はソース煎餅売りなんです。紙芝居が終わった後に、集まった子供たちが買うのですが、私は買った記憶がありません。たぶんお小遣いもってなかったんでしょうね、いつも。のんびりしてましたね、この頃の日本は。世間では高度成長でモーレツ社員なんて言葉がはやっていたと思うんですけどね。でも、子供達には及んでいませんでしたね。そんな雰囲気は。だって、紙芝居屋さんがまだ成り立っていたぐらいですから。
Posted by ムルギー - 2008.04.01,Tue
水の宿る地「水宿」から転じて、「三宿」となったほどに、水の豊かな場所でした。地形を見れば一目瞭然ですが、国道246から三宿、池尻に向かってゆるやかな下り坂となっています。烏山川を境に、今度は上り坂となります。川があるのはその地域で一番低い土地ですから、まあ当然のことですが。今でこそ川が氾濫することはありませんが、暗渠になる前は何回も大水が出ていたようです。数年前の台風では、池尻で床上浸水がありました。これは川の氾濫ではなく、行き場を失った雨水のせいでしたが…。ウイキペディアによると、北沢川と烏山川の合流点付近から大橋付近まで沼沢地帯で、幕末の頃まで「蛇池」、あるいは「龍池」と言われていたそうです。実はその名残が、昭和40年代まで存在していました。通称「三宿たんぼ」です。現在シーアイマンションという大きなマンションが建っている場所、そこがまさに「三宿たんぼ」でした。ですからシーアイマンション着工年を調べれば、「三宿たんぼ」がいつまで残っていたかわかります。で、三宿たんぼですが、渋谷からわすかな距離にあるにも関わらず水が至るところで湧き上がり、まったく濁りのない澄んだ水をたたえていました。一面にクレソンが繁殖し、近所の家庭の食卓にも供されていたはずです。というか、我が家ではよく食べていました。いくらでもあるんですから。「三宿たんぼ」には、誰が設置したのか、尾瀬沼にあるような橋が渡っており、向こう岸へ行くことができるようになていました。その先は細い道に通じていて、近道ができるんですね。ここを通ると。ちなみに私は、時々この橋を通って中学に通っておりました。ここを通ると、東京にいるとはとても思えない気分になるので…。ただし、この池の南側はゴミ捨て場になっており、ゴミの山ができていました。周辺にはごみを運ぶリヤカーたくさん置いてありました。このあたりは、いわゆる「バタヤ」街だったのですね。まあ、この辺りの歴史を発掘していいものかどうか、微妙なところですが…。というわけで、今回は「三宿たんぼ」をクローズアップしてみました。しかし、シーアイマンション住んでる人、知らないだろうなあ、かつてそこが沼地だったなんて。
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左の写真はシーアイマンションです。北沢川緑道から撮影しています。写真には写っていませんが、右方向にに同じ大きさの棟があります。





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69
性別:
非公開
誕生日:
1955/11/12
職業:
下等遊民
趣味:
めまいのする散歩
自己紹介:
中国四川省の深山で生を受け、三歳にして四書五経、平凡パンチなどを読破。その後世界を放浪する資金に恵まれず、四川省とは似ても似つかぬ烏山川流域を放浪。水宿を終の棲家と決め、今日に至る。
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